ブンデスリーガ日本人選手の歴史|奥寺康彦が切り開いた1970〜90年代

70年代風のピチTとパンタロン姿の尾崎加寿夫、80年代のタケノコ族風ファッションの風間八宏。背景にドイツ時代のプレーシーンを描いたイラスト 海外リーグの記憶

今ではブンデスリーガで日本人選手がプレーしていても、それほど驚かなくなりました。

毎週のようにドイツから日本人選手の活躍が伝えられ、日本代表でもブンデスリーガ所属選手の名前を聞くことが当たり前になっています。

しかし、その歴史をさかのぼると、Jリーグが誕生するよりもずっと前、日本人がヨーロッパのトップリーグでプレーすること自体が珍しかった時代にたどり着きます。

その道を切り開いたのが、1977年に西ドイツへ渡った奥寺康彦さんです。

ただ、当時の日本人選手の挑戦を振り返ると、奥寺さんだけではありません。

1980年代には尾崎加寿夫さんもブンデスリーガ1部でプレーし、風間八宏さんはドイツのクラブで経験を積んでいました。

今回は1970年代から1990年代までを振り返り、日本人選手がドイツでどのように道を切り開いたのか、その足跡をたどります。

1970〜90年代のブンデスリーガ日本人選手一覧

まず、この時代にドイツでプレーした主な日本人選手を整理してみましょう。

※奥寺さんはヘルタ・ベルリンにも所属しましたが、当時は2部でプレーしています。
表の出場数はブンデスリーガ1部の記録です。

この時代の特徴は、現在と比べて日本人選手の数が非常に少なかったことです。

しかも、ドイツでプレーした日本人選手が全員、ブンデスリーガ1部のピッチに立てたわけではありません。

その違いを知ることも、当時の日本人選手の挑戦を理解するうえで大切だと思います。

奥寺康彦|1977年、日本人の欧州挑戦が始まった

古河電工から1.FCケルンへの移籍

1977年、古河電気工業サッカー部でプレーしていた奥寺康彦さんは、西ドイツの名門1.FCケルンへ移籍しました。

当時の日本には、まだプロサッカーリーグがありません。

国内のトップ選手は日本サッカーリーグに所属していましたが、企業のサッカー部という形が一般的でした。

そんな時代に、ヨーロッパの強豪クラブへ移籍したのです。

現在なら、日本人選手がドイツへ移籍すると聞いても、それほど驚くニュースではないでしょう。

しかし、1977年という時代を考えると、奥寺さんの挑戦がどれほど大きな出来事だったのかが分かります。

日本代表がワールドカップ本大会に初めて出場するのは1998年。

世界はまだまだ身近ではなかった時代。

Jリーグ開幕より16年も前の話です。

日本人選手の海外移籍が一般的になるはるか以前に、奥寺さんは世界でも競争の激しいリーグへ飛び込んでいました。

ケルンでリーグ優勝とカップ戦優勝を経験

奥寺さんの挑戦は、海外移籍を実現しただけでは終わりませんでした。

1977-78シーズン、ケルンはブンデスリーガとDFBポカールを制覇し、国内二冠を達成しています。

奥寺さんは、その優勝メンバーの一人でした。

当時のケルンを率いていたのは、後に世界的な名将として知られるヘネス・バイスバイラー監督です。

欧州の強豪クラブで競争しながら、タイトル獲得に貢献する。

日本人選手が海外で活躍すること自体が珍しかった時代に、すでにこれほどの実績を残していたことには驚かされます。

そして奥寺さんは、ヨーロッパの舞台でも印象的な活躍を見せました。

1978-79シーズンのヨーロピアンカップでは、ノッティンガム・フォレストとの準決勝第1戦で得点を記録しています。

現在のUEFAチャンピオンズリーグにつながる大会で、日本人選手がゴールを決めていたのです。

今の日本人選手の欧州での活躍を見ていると、どうしても最近の出来事のように感じます。

しかし、その歴史は半世紀近く前から始まっていました。

ヘルタ・ベルリンを経てブレーメンへ

ケルンでの成功後、奥寺さんは1980年にヘルタ・ベルリンへ移籍します。

ただし、当時のヘルタはブンデスリーガ2部に所属していました。

DFBの記録では、奥寺さんは1980-81シーズンに2部で25試合8得点を記録しています。

そして1981年、ヴェルダー・ブレーメンへ移籍しました。

この移籍が、奥寺さんのドイツでのキャリアをさらに充実させることになります。

奥寺康彦|ブレーメンで完成した万能型プレーヤー

レーハーゲル監督の下で守備的なポジションへ

ブレーメンで奥寺さんを指導したのは、オットー・レーハーゲル監督でした。

奥寺さんは、もともとスピードと左足のシュートを武器にする攻撃的な選手です。

ところがブレーメンでは、レーハーゲル監督によって守備的なポジションへ転向しました。

ブレーメンの公式紹介でも、守備的な選手へ転向した奥寺さんが、主にサイドで活躍し、加入当初から主力として起用されていたことが紹介されています。

現在のサッカーでは、サイドバックにも攻撃への参加やビルドアップへの貢献が求められます。

しかし、奥寺さんがプレーしていたのは1980年代です。

攻撃的な選手として実績を残しながら、今度は守備的な役割を任され、それでもチームの中心選手であり続けました。

私が奥寺さんの経歴で特に興味を引かれるのは、この部分です。
海外へ移籍して成功するだけでも難しいのに、ポジションまで変えて長期間活躍したのですから、技術だけでなく戦術を理解する力も優れていたのでしょう。

ブンデスリーガ準優勝3回という実績

奥寺さんが在籍した1981年から1986年までのブレーメンは、リーグ優勝こそ逃したものの、3度の準優勝を経験しました。

奥寺さんは5シーズンにわたって主力としてプレーしています。

ブレーメン公式によると、この5年間で欠場したブンデスリーガの試合はわずか11試合でした。

長いシーズンを通じて安定して起用されていたことが分かります。

ブンデスリーガ1部での公式記録を整理すると、次のようになります。

なお、日本サッカー協会の殿堂紹介には259試合34得点という記録もあります。
この記事では、1部234試合26得点、2部25試合8得点を区別して確認できるDFBの記録を採用しています。

奥寺さんの実績を振り返ると、単なる日本人初の海外組という言葉では収まりません。

優勝争いをするクラブで、毎週のようにピッチに立っていた日本人選手です。

それが、まだ日本にJリーグが存在しなかった時代だったことを忘れてはいけないと思います。

尾崎加寿夫|「東洋の爆撃機」と呼ばれた日本人ストライカー

フェイエノールト相手に4得点!1982年の衝撃

奥寺康彦さんに続いて、1980年代のブンデスリーガで活躍した日本人選手が尾崎加寿夫さんです。

尾崎さんの名前を調べていると、「東洋の爆撃機」という、いかにも昭和のサッカーらしい異名が出てきます。

プレーの記録を調べると、なかなか強烈なストライカーだったことが分かります。

1982年のジャパンカップ・キリンワールドサッカーで、日本代表はオランダの名門フェイエノールトと対戦しました。

この試合で尾崎さんは、なんと一人で4得点を記録します。

日本代表は5-2で勝利しました。

しかも相手は、1970年にヨーロピアンカップを制覇した実績を持つクラブです。

尾崎さんは大会全体でも4試合6得点を挙げ、日本代表の準優勝に大きく貢献しました。

日本サッカー協会の紹介によると、この活躍はヨーロッパでも話題となり、翌年のドイツ移籍につながったとされています。

「東洋の爆撃機」。

少々大げさな呼び名にも感じますが、フェイエノールト相手に4発と聞けば、なるほどと思ってしまいます。(笑)

1983年、ビーレフェルトで衝撃のデビューゴール

1983年、尾崎さんはアルミニア・ビーレフェルトに加入しました。

奥寺さんに続く、日本人2人目のブンデスリーガ1部でプレーした選手となります。

そして迎えた1983年8月13日、開幕戦の相手は1.FCケルンでした。

試合開始9分、ケルンのピエール・リトバルスキーが先制します。

ところが24分、尾崎さんが同点ゴールを決めました。

ブンデスリーガ1部のデビュー戦で、いきなり得点を挙げたのです。

その後、ビーレフェルトは2点を追加。ケルンの反撃を振り切り、3-2で勝利しました。

今でこそ日本人選手が欧州リーグでゴールを決めるニュースは珍しくありません。

しかし、1983年です。

Jリーグが開幕する10年前に、ドイツ1部の開幕戦で日本人ストライカーがゴールを決めていました。

奥寺さんが長期間にわたって実力を証明した選手なら、尾崎さんはゴールという分かりやすい結果で、その存在を示した選手だったのでしょう。

この試合で先制点を決めたリトバルスキーは、後にジェフ市原で活躍し、横浜FCの監督も務めた、あの『リティ』です。
尾崎さんのデビュー戦を調べていて、思いがけず懐かしい名前に出会いました。

ビーレフェルトからザンクトパウリへ|1部通算62試合9得点

尾崎さんは1983-84シーズン、ビーレフェルトで33試合5得点を記録しました。

翌1984-85シーズンも23試合4得点を挙げています。

その後、ビーレフェルトは2部へ降格しましたが、尾崎さんはドイツでのプレーを続けました。

1988-89シーズンにはザンクトパウリへ移籍し、再びブンデスリーガ1部のピッチに立っています。

DFB公式記録による成績は次のとおりです。

数字だけを見ると、奥寺さんの234試合には及びません。

それでも、1980年代のブンデスリーガで日本人FWが62試合に出場し、9得点を挙げた実績は、もっと知られてよいと思います。

奥寺さんだけではなかった、日本人選手のドイツ挑戦。

そして、フェイエノールト相手の4得点から、ケルン戦のデビューゴールへ。

尾崎さんの経歴を振り返ると、「東洋の爆撃機」という異名が、なんとも似合う選手だったことが伝わってきます。

風間八宏|ブンデスリーガ1部だけではないドイツ挑戦

ドイツのクラブで積み重ねた経験

1970〜80年代の日本人選手のドイツ挑戦を語るなら、風間八宏さんの名前も外せません。

風間さんは、レバークーゼン、レムシャイト、ブラウンシュヴァイクなど、ドイツのクラブでプレーした経歴を持っています。

ただし、ここで区別しておきたいことがあります。

ドイツのクラブに所属したことと、ブンデスリーガ1部の公式戦に出場したことは同じではありません。

風間さんについては、1部公式戦での出場実績を確認できないため、この記事では1部出場選手として数えていません。

それでも、当時のドイツでプレーした経験が持つ意味は小さくないでしょう。

日本にプロリーグが存在しない時代、サッカー文化も練習環境も異なる海外のクラブで経験を積んでいたのです。

海外経験を日本サッカーへ持ち帰った選手

風間さんは帰国後、サンフレッチェ広島でプレーし、現役引退後は指導者としても活動しました。

川崎フロンターレや名古屋グランパスの監督を務めた姿を覚えている方も多いと思います。

私にとって風間さんは、Jリーグでの印象が強い人物です。

引退後も監督として活躍しました。

だからこそ、ドイツでプレーしていた経歴を振り返ると、少し違った見方ができます。

もちろん、後年の指導方法のすべてがドイツでの経験によって形作られたとは言えません。

それでも、選手として海外のサッカーを経験し、その後に日本で指導者となったという歩みには、興味深いものがあります。

ブンデスリーガ1部の出場記録だけでは見えてこない、日本人選手の海外挑戦の一つです。

1990年代|日本人選手のドイツ1部進出が途絶えた時代

Jリーグ開幕後もドイツへの道は広がらなかった

1993年、日本でJリーグが開幕しました。

日本サッカーがプロ化へ踏み出した歴史的な年です。

私にとっても、サッカーへの興味の「夜明け」です。

しかし、Jリーグが始まったからといって、日本人選手がすぐにブンデスリーガへ進出したわけではありません。

確認できるブンデスリーガ1部の歴代日本人出場記録では、尾崎さんが1988-89シーズンにプレーした後、次の日本人選手が登場するまで長い空白があります。

1990年代には、新たな日本人選手の1部出場を確認できませんでした。

奥寺さんが1977年にケルンへ移籍し、1980年代には尾崎さんも活躍しました。

それなのに、1990年代にはその流れが続かなかったのです。

日本サッカーの歴史を振り返ると、少し意外な気がします。

海外挑戦の舞台はドイツだけではなかった

もちろん、1990年代に日本人選手の海外挑戦そのものが途絶えたわけではありません。

1994年には三浦知良さんがイタリアのジェノアへ移籍しました。

1998年には中田英寿さんがペルージャへ加入しています。

海外でプレーする日本人選手への注目は、むしろ高まっていった時代でした。

ただ、その舞台はブンデスリーガだけではありませんでした。

日本人選手の海外進出という大きな流れと、ドイツ1部リーグでの日本人選手の歴史は、必ずしも同じ歩みをたどっていなかったのです。

私は、この空白期間もブンデスリーガの日本人史に欠かせない部分だと思います。

奥寺さんが成功したからといって、その道がすぐに誰にでも開かれたわけではありません。

次の世代が再びドイツ1部で存在感を示すまでには、長い時間が必要でした。

2000年代|高原直泰が再び開いたブンデスリーガへの道

2003年、ハンブルガーSVへ移籍

日本人選手が再びブンデスリーガ1部でプレーするようになったのは、2000年代に入ってからです。

その代表的な存在が、高原直泰さんでした。

高原さんはジュビロ磐田で活躍した後、アルゼンチンのボカ・ジュニアーズへの移籍を経験し、2003年にハンブルガーSVへ加入しました。

奥寺さんや尾崎さんの時代とは、日本サッカーを取り巻く環境が大きく変わっています。

Jリーグが開幕し、日本代表は1998年のフランス大会でワールドカップ初出場を果たしました。

さらに2002年には、日本と韓国でワールドカップが開催されています。

日本人選手が世界の舞台でプレーすることへの期待が高まるなか、高原さんはドイツへ渡ったのです。

日本人選手のドイツ挑戦が再び動き始めた

高原さんはハンブルガーSVでプレーした後、アイントラハト・フランクフルトにも所属しました。

その後、2000年代後半には稲本潤一さんや長谷部誠さん、小野伸二さんらもブンデスリーガに挑戦しています。

奥寺さんが切り開いた道を、次の世代の選手たちが再び歩み始めたのです。

ただし、1970年代と2000年代では、挑戦の意味も環境も違っていたと思います。

奥寺さんの時代は、日本人が欧州のトップリーグで通用すること自体を証明する挑戦でした。

一方、高原さんたちの時代には、Jリーグや日本代表で実績を積んだ選手が、さらに高いレベルを求めて海外へ向かう流れが生まれていました。

この違いを知ると、ブンデスリーガにおける日本人選手の歴史が、単なる移籍人数の増加ではないことが分かります。

そして、この流れは2010年代に入ると、香川真司さんや内田篤人さん、岡崎慎司さんらが活躍する時代へとつながっていきます。

まとめ|奥寺康彦と尾崎加寿夫が切り開いた道

1977年、奥寺康彦さんが1.FCケルンへ移籍したことから、日本人選手のブンデスリーガでの歴史は始まりました。

奥寺さんはケルンでリーグ優勝とカップ戦優勝を経験し、ブレーメンでも長期間にわたって主力として活躍しました。

さらに1980年代には、尾崎加寿夫さんがビーレフェルトとザンクトパウリで1部のピッチに立っています。

特に1982年のフェイエノールト戦で記録した4得点は、尾崎さんの得点力を象徴する出来事でした。

風間八宏さんのように、1部での出場記録には残らなくても、ドイツのクラブで経験を積んだ日本人選手もいました。

そして1990年代の空白を経て、2000年代には高原直泰さんが再びブンデスリーガで日本人選手の存在感を示していきます。

現在、ドイツで活躍する日本人選手の姿を当たり前のように見られるのは、こうした先人たちの挑戦があったからこそでしょう。

私にとって奥寺さんは、ブンデスリーガの歴史に名前を残した日本人選手であると同時に、横浜FCの歴史を支えてきた人物でもあります。

2026年にはヴィアティン三重の強化アドバイザーにも就任し、横浜FCのシニアアドバイザーも引き続き務めています。

ドイツでプレーした時代を知らない世代にとっても、決して遠い昔の人物ではありません。

選手として道を切り開き、その後も日本サッカーに関わり続けてきた奥寺さん。

その足跡を振り返ると、現在の日本人選手たちの活躍が、また少し違ったものに見えてきます。

そして次の時代は、2000年代。

高原直泰さんをはじめとする日本人選手たちが、再びドイツの舞台へ挑戦していきます。

出典:ドイツサッカー連盟(DFB)公式

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