小学校の卒業文集に「16歳でプロになる」と書いた少年がいました。
その少年が、柿谷曜一朗さんです。
普通なら「プロサッカー選手になりたい」と書きそうなところですが、柿谷さんは違います。
「16歳」という年齢まで決めていました。
小学4年生でナショナルトレセンに選ばれ、プロを強く意識するようになった柿谷さんは、16歳でプロになることを明確な目標にして、そこから逆算して練習していたと振り返っています。
そして2006年、本当に16歳でセレッソ大阪とプロ契約を結びました。
私がこの話で面白いと思ったのは、柿谷さんにとって「プロになれるかどうか」が最大の問題ではなかったように見えることです。
プロになる。
その未来はすでに自分の中にあって、あとはどれだけ早くそこへたどり着くか。
そんな少年だったからこそ、「天才・柿谷曜一朗」は生まれたのかもしれません。
しかし、16歳でプロになるという目標を本当に達成したあと、そのサッカー人生は決して予定どおりには進みませんでした。
天才と呼ばれた少年は徳島へ行き、セレッソへ戻り、日本代表になり、ワールドカップを経験し、海を渡ります。
そして現役生活の最後に戻った場所も、徳島でした。
今回は、柿谷曜一朗さんの現在と成績を確認しながら、「天才」と呼ばれた選手が歩いたサッカー人生を振り返ります。
柿谷曜一朗は現在何をしている?現役引退後の活動
柿谷曜一朗さんは、2024シーズンを最後に現役生活を終え、2025年1月18日に現役引退が発表されました。
引退後はサッカーから離れたわけではありません。
JFAのサッカー教室で子どもたちを指導するほか、2025年にはJFA全日本U-12サッカー選手権大会の大会アンバサダーにも就任しています。
そこで子どもたちへ伝えている言葉を見ると、現役時代の柿谷さんを知っている私は少し感慨深くなります。
16歳でプロになるという目標を立て、それを本当に実現した人が、今度はプロを夢見る子どもたちへ自分の経験を伝える側になりました。
しかも柿谷さん自身、16歳で夢を実現したことで「そこで満足してしまったところがあった」と振り返っています。
早く夢をかなえたからこそ、その先で何が必要なのかも知っている。

現在の柿谷さんだから伝えられることがあるのだと思います。
「16歳でプロになる」小学校の卒業文集に書いた未来
柿谷曜一朗さんは幼いころからセレッソ大阪の育成組織でプレーしてきました。
小学4年生でナショナルトレセンに選ばれると、プロへの意識がさらに強くなります。そして小学校の卒業文集に書いたのが、
「16歳でプロになる」
という目標でした。
実際に2006年、セレッソ大阪と16歳でプロ契約。
クラブ史上最年少でした。
こうして結果だけを並べると、やはり「天才」という言葉が浮かびます。
しかし、個人的には「16歳でプロになった」という事実以上に、そこから逆算して小学生のころから練習していたという話のほうに驚かされます。
プロになることを漠然と夢見ていたのではありません。
16歳でなる。
そこまで具体的に未来を決めていたわけです。
しかも、それを本当に実現してしまいました。
ところが、ここからが柿谷曜一朗という選手の面白いところです。
あまりにも早く最初の目標へ到達してしまったことで、今度は「プロになったあと」が始まりました。
柿谷曜一朗はなぜ「天才」と呼ばれたのか
柿谷曜一朗と聞いて、私が最初に思い浮かべる言葉もやはり「天才」です。
トラップ、ボールタッチ、シュート、そしてゴール前で突然出てくる発想。
力で相手をねじ伏せるタイプではありません。

「そこで、それをやるのか」と思わせる選手でした。
その特徴は若いころだけのものでもありません。
名古屋グランパス時代の2021年、セレッソ大阪戦で見せたゴールを覚えている人も多いのではないでしょうか。
浮いたボールを自らコントロールし、そのままオーバーヘッド。
このゴールは2021年のJリーグ最優秀ゴール賞に選ばれました。
選考でも「まさに天才」「柿谷曜一朗以外出来ないプレー」と評されています。
30代になっても、見ている側に「そんなことをするのか」と思わせる。
だから柿谷曜一朗には、最後まで「天才」という言葉がついて回ったのでしょう。
ただし、その才能だけですべてがうまくいったわけではありません。
天才が徳島へ――柿谷曜一朗に訪れた最初の転機
16歳でプロになった柿谷さんですが、若手時代のセレッソ大阪では遅刻などを繰り返し、プロとしての姿勢を問われるようになります。
本人も後年、当時について「調子に乗っていた」と振り返っています。
2026年に出演した『しくじり先生』でも、この時期について自ら語りました。
特に象徴的なのが2009年です。
香川真司選手、乾貴士選手が不在だった試合で先発すると、プロ入り後初となる2得点を記録しました。
ところが、その翌日にまた遅刻。
前日に2得点を決めたばかりなのに、チームを離れることになります。
そして向かった先が、当時J2の徳島ヴォルティスでした。
この徳島移籍こそ、柿谷曜一朗のサッカー人生を語るうえで外せない出来事だと思います。
16歳でプロになり、周囲から天才と呼ばれてきた選手です。
しかし、プロになれば才能だけで何でも許されるわけではありません。
柿谷さん自身も徳島時代について、美濃部直彦監督に何度も叱られ、悔しくて泣き、それまで自分が置かれていた環境が当たり前ではなかったと気づいたと振り返っています。
私は、ここで初めて「16歳でプロになる」という少年時代の目標の続きが始まったように感じます。

プロになることには成功しました。
次に必要だったのは、プロであり続けることでした。
セレッソ大阪へ帰還――背番号8を背負うまで
徳島で約2年半を過ごした柿谷曜一朗さんは、2012年にセレッソ大阪へ復帰します。
ここから、私たちがよく知る「柿谷曜一朗」の時間が始まります。
2013年にはJ1リーグ34試合に出場して21得点。
日本代表にも初選出され、東アジアカップでは中国戦で代表初得点。
韓国戦では2得点を挙げ、日本の大会初優勝に大きく貢献しました。
そしてセレッソ大阪では背番号8を背負います。
森島寛晃さんから香川真司選手、清武弘嗣選手へとつながってきた、セレッソにとって特別な番号です。
16歳でプロになったころから才能そのものは疑われていませんでした。
しかし、一度セレッソを離れた柿谷さんが徳島から帰り、8番を背負い、日本代表まで駆け上がった。
この過程まで含めて考えると、単なる「天才の成功物語」とはまったく違って見えます。
徳島へ行った時間が遠回りだったのか。

私はそうは思いません。
むしろ、あの時間がなければ背番号8の柿谷曜一朗は生まれなかったのではないかと思っています。
日本代表、ワールドカップ、バーゼルへ
2013年に日本代表デビューを果たした柿谷曜一朗さんは、国際Aマッチ18試合に出場して5得点を記録しています。
そして2014年、ブラジルワールドカップの日本代表メンバーに選ばれました。
小学校の卒業文集に「16歳でプロになる」と書いた少年が、日本代表としてワールドカップのピッチまでたどり着いたことになります。
大会後の2014年7月には、スイスのFCバーゼルへ完全移籍しました。
移籍会見で柿谷さんは、ワールドカップで日本の力を世界に示せなかった悔しさや、もっと中心選手として試合に出たいという思いが海外挑戦の理由になったと説明しています。
バーゼルでは思うように出場機会をつかめない時期もあり、2016年にセレッソ大阪へ復帰しました。
16歳でプロになり、徳島への移籍を経験し、セレッソの8番を背負い、日本代表、ワールドカップ、そして欧州へ。
子どものころに思い描いた以上に遠くまで行ったサッカー人生だったのではないでしょうか。
柿谷曜一朗の成績|セレッソ・徳島・名古屋・日本代表
柿谷曜一朗さんのキャリアを所属クラブで振り返ると、その歩み自体がひとつの物語になっています。
| 時期 | 所属 |
|---|---|
| 2006~2009年 | セレッソ大阪 |
| 2009~2011年 | 徳島ヴォルティス |
| 2012~2014年 | セレッソ大阪 |
| 2014~2015年 | FCバーゼル |
| 2016~2020年 | セレッソ大阪 |
| 2021~2022年 | 名古屋グランパス |
| 2023~2024年 | 徳島ヴォルティス |
日本代表では18試合5得点。
Jリーグでは2013年にセレッソ大阪でリーグ戦21得点を記録し、2021年には名古屋グランパスで年間最優秀ゴール賞を受賞しています。
20代前半の全盛期だけではなく、30代になっても「柿谷にしかできない」と言われるゴールを残したことが印象的です。
数字を追うだけでも立派なキャリアです。
しかし柿谷曜一朗という選手の場合、数字の間にある出来事のほうが記憶に残ります。
柿谷曜一朗の引退――最後に選んだのも徳島だった
2023年、柿谷曜一朗さんは再び徳島ヴォルティスへ移籍します。
そして2024シーズンを最後に徳島との契約が満了。
2025年1月に現役引退が発表されました。
最初に徳島へ行ったのは2009年です。
セレッソで遅刻を繰り返し、環境を変えることになった若手時代でした。
そしてプロ生活の最後に所属したクラブも徳島。
これは偶然の巡り合わせなのかもしれません。
それでも柿谷曜一朗のキャリアを最初から振り返ったあとでは、何ともできすぎた終わり方に感じます。
16歳でプロになった天才が、一度つまずいた場所。
そこでプロとしての意識を学び、セレッソへ戻って8番を背負い、日本代表になり、世界へ出ました。
そして最後はもう一度、徳島へ戻ってきました。
柿谷曜一朗のキャリアを語るとき、セレッソ大阪が特別なクラブなのは間違いありません。
でも同じくらい、徳島ヴォルティスも欠かすことのできないクラブだったのだと思います。
まとめ|「16歳でプロになる」と書いた少年が歩いたサッカー人生
小学校の卒業文集に「16歳でプロになる」と書き、本当に16歳でプロになった柿谷曜一朗さん。
ここまでなら、天才少年の成功物語です。
でも、その後は違いました。
プロになったことで満足し、遅刻を繰り返し、セレッソを離れました。
徳島で自分を見つめ直し、セレッソへ帰還。
8番を背負い、日本代表になり、ブラジルワールドカップへ出場し、バーゼルへ移籍しました。
その後もセレッソ、名古屋でプレーを続け、最後はもう一度徳島へ戻りました。
「天才・柿谷曜一朗」。
確かにその呼び方は間違っていないと思います。
あのボールタッチや、誰も思いつかないようなゴールを見れば、私もそう呼びたくなります。
でも、キャリアを最初から最後まで見てみると、それだけでは少し足りません。
16歳でプロになることより、プロになったあとに何を学んだのか。
一度セレッソを離れたことより、そこからどうやって帰ってきたのか。

柿谷曜一朗という選手が記憶に残る理由は、天才だったからだけではないのでしょう。
小学生のころに決めた未来を本当に実現し、その先で何度もつまずきながら、それでも自分にしかできないプレーを見せ続けた。
私は、そんな柿谷曜一朗を「天才」という一言だけで片づけるのは、やっぱりもったいないと思います。


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