最近、私が加地亮さんを目にする場所といえば、MBSの「KICK OFF! KANSAI」です。
現役時代を知っている人なら、日本代表の右サイドを何度も駆け上がっていた姿を思い浮かべるでしょう。
ところが今は、番組でにこやかにMCを務め、関西のJリーグを伝えています。

なんだか、ずいぶん印象が変わりました。
加地亮という選手を振り返っていくと、今の穏やかな表情とは対照的に、現役時代はとにかく走っていた記憶があります。
ジーコジャパンで右サイドを駆け上がり、2006年ドイツワールドカップを経験。
そしてイビチャ・オシム監督のもとでは、「ただ走る」のではなく「考えて走る」サッカーへ。
特に印象に残っているのが、遠藤保仁との右サイドです。
遠藤がボールを持つ。その瞬間に加地が走り出す。
何度見たでしょうか。
今回は、現在の加地亮さんから少し時間を巻き戻し、私の記憶に残っている「走る右サイドバック」を振り返ります。
加地亮の現在は?カフェと「KICK OFF! KANSAI」で活躍
現役を退いた加地亮さんは、現在もサッカーとさまざまな形で関わっています。
そのひとつが、MBS「KICK OFF! KANSAI」です。
番組は「サッカーを地域から盛り上げよう!」を合言葉に、ガンバ大阪、セレッソ大阪、ヴィッセル神戸、京都サンガF.C.、FC大阪、奈良クラブ、滋賀レイラックなど関西のクラブを取り上げています。
加地さんはMCとして出演し、選手へのインタビューだけでなく、プレーを実演したり解説したりすることもあります。
2026年10月にはFC大阪対奈良クラブで「KICK OFF! KANSAI」とのコラボ企画が組まれ、加地さんの来場も発表されています。
番組のスタジオだけではなく、今も関西サッカーの現場に出ていることが分かります。
そして、「加地亮」と検索すると目立つのが「カフェ」というキーワードです。
引退後の加地さんは、大阪府箕面市にある「CAZI CAFE」で働いてきました。
2019年には、カフェで大量の皿を洗うことが自分のメインの仕事だと紹介されたこともあります。

元日本代表の右サイドバックが、引退後はカフェで皿洗い。
かなり意外なセカンドキャリアです。
ただ、私にとって現在の加地亮さんといえば、やはり「KICK OFF! KANSAI」の印象が強くなっています。
テレビでにこやかに話している姿を見ると、現役時代を知る者としては少し不思議な感じもします。
なぜなら、私の記憶にある加地亮は、笑顔よりも「走っている姿」だからです。
加地亮の成績と経歴|日本代表の右サイドを走り続けたSB
加地亮さんは1980年1月13日生まれ。
滝川第二高校から1998年にセレッソ大阪へ加入し、大分トリニータ、FC東京を経て、2006年からガンバ大阪でプレーしました。
その後は2014年にMLSのチーヴァスUSAへ移籍。帰国後はファジアーノ岡山に所属し、2017年シーズンを最後に現役を引退しています。
Jリーグでは通算499試合に出場しました。
あと1試合で500試合。
数字だけを見れば「出してあげても」と思ってしまいますが、加地さん自身は記録のためだけに試合へ出ることを望みませんでした。
チームが勝つことが一番であり、自分が必要でなければ出さないのは当然だという考えだったことを、引退後に明かしています。
日本代表ではジーコ監督時代に右サイドバックの定位置をつかみ、2006年ドイツワールドカップにも出場しました。
派手なゴールを量産する選手ではありません。
それでも、当時の日本代表を思い出すと、右サイドには加地亮がいました。
私が覚えている加地亮は、右サイドを何度も駆け上がる選手だった
加地亮という名前を聞いて、最初に何を思い浮かべるでしょうか。
私の場合はオーバーラップです。
中盤の選手がボールを持つと、右の外側を加地が走っていく。
一度上がったと思ったら戻り、また次の攻撃になると上がってくる。
よく走るなあ。
そんな印象を持っていました。
本人もジーコジャパン時代について、中田英寿や中村俊輔ら個性の強い選手がいるなか、自分は右サイドを走り、黒子として周囲を支えることを意識していたと振り返っています。
この「黒子」という言葉は、私が持っている加地亮の印象にもよく合います。
ボールを持って何人も抜いていくわけではありません。
でも、誰かがボールを持ったとき、その選手を助ける場所に加地が走ってくる。
サイドバックが上がることで相手を外へ引っ張れば、中の選手もプレーしやすくなります。
目立つ選手を生かすために走る。
それが加地亮でした。
オシムジャパンで変わった加地亮|「考えて走る」サッカー
2006年ドイツワールドカップ後、日本代表監督に就任したのがイビチャ・オシム監督です。
オシム監督というと「走るサッカー」の印象が強く残っています。
ただ、加地さんの言葉をたどると、単純に運動量を増やせばいいという話ではなかったことが分かります。
加地さんは後年、オシム監督のサッカーについて、ジーコ監督時代より厳しかったものの、ただ走るのではなく「走りの質」まで求められたと振り返っています。
つまり、考えて走る。
どこへ走るのか。
なぜそこへ走るのか。
自分が動いたことで、誰のためのスペースができるのか。
もともと豊富な運動量と献身性を持っていた加地にとって、オシム監督のサッカーは新しい学びの多いものだったようです。
「走れる選手」に「考えて走る」が加わる。
今振り返ると、加地亮というサイドバックの特徴と、オシム監督が求めたサッカーは相性が良かったのではないかと思います。
しかし、その一方で加地さん自身は、ドイツワールドカップ後から精神的な疲労を抱えていました。
オシム監督に呼ばれることは光栄だった。
それでも、身体が動かず、代表へ行っても楽しくないほど気持ちが疲れていたと明かしています。
私たちがテレビで見ていた「走る加地亮」。

その裏側では、少しずつ心身が削られていたのかもしれません。
加地亮と遠藤保仁「あ・うんの呼吸」で作った右サイド
そして、私が加地亮を語るうえで外せない選手が遠藤保仁です。
ガンバ大阪でも日本代表でも一緒にプレーした二人。
遠藤といえば、数手先を読んでいるようなパスが印象に残る選手です。
相手を食いつかせ、できたスペースへボールを通す。
そこへ走り込む選手が必要になります。
加地はまさに、その役割を担えるサイドバックでした。
遠藤がボールを持つ。
加地が走り出す。
そして右サイドのスペースへボールが出る。
私には、この形が強く記憶に残っています。
ガンバ大阪へ加入した当初、加地さん自身は遠藤や二川孝広、明神智和、橋本英郎らの持つ「落ち着き」や「余裕」に驚き、そのサッカーへ入っていくのに時間がかかったと振り返っています。
だからこそ面白いのです。
最初から「あ・うんの呼吸」だったわけではありません。
周囲の選手が何を見ているのかを学び、自分もその先を考える。
遠藤が相手を引きつければ、その先にできるスペースへ加地が走る。
外を回ることもあれば、内側へ入ることもある。
「走る」だけでは成立しません。
パスを出す側と走る側が、同じ場所を見て初めて成立するプレーです。
オシム監督が求めた「考えて走る」という言葉を振り返ったとき、私は遠藤と加地の連係を思い出します。
2007年アジアカップ|俊輔・遠藤・憲剛、その外側にいた加地亮
オシムジャパンを振り返るなら、2007年アジアカップも外せません。
この大会の日本代表には、中村俊輔、遠藤保仁、中村憲剛、鈴木啓太らがいました。
今、名前を並べるだけでもすごい中盤です。
そして右サイドバックには背番号21、加地亮。
日本はグループリーグを首位で突破し、準々決勝では前年のドイツワールドカップで敗れたオーストラリアと再戦。1-1からPK戦を4-3で制しました。
最終的には準決勝でサウジアラビアに2-3で敗れ、3位決定戦でも韓国にPK戦で敗れて4位となっています。
優勝には届きませんでした。
それでも私にとって、あの時代の日本代表は面白いチームでした。
俊輔がいる。
遠藤がいる。
憲剛がいる。
中央にはボールを扱える選手が何人もいる。
だからこそ、その外側を走る選手の存在が効いてきます。
そこで加地亮です。
ボールを持つ選手だけを見ていると目立たない。
でも少し画面を広く見ると、また右から加地が上がってくる。
今のようにサイドバックが内側へ入ったり、ビルドアップの中心になったりする戦術が当たり前になる以前から、加地は周囲を生かすために走り続けていました。

「加地亮ってどんな選手だった?」
そう聞かれたら、私は成績表より先に、この景色を思い出します。
なぜ加地亮は28歳で日本代表を引退したのか
加地亮さんは2008年5月、日本代表から退く意思を明らかにしました。
まだ28歳でした。
右サイドバックとして十分に代表で戦える年齢です。
当時は、オシム監督から岡田武史監督へ代わったことや、左サイドバックで起用されたことへの不満、内田篤人の台頭など、さまざまな理由が語られました。
しかし、加地さん本人が後に語った理由は、それだけではありません。
ドイツワールドカップの予選を戦い、本大会ではグループリーグ敗退。
帰国してすぐ次の代表活動が始まるなかで、気持ちを切り替えられなかったといいます。
さらに代表とガンバ大阪を行き来する生活が続き、海外遠征では時差や不眠にも悩まされました。
オシム監督のサッカーそのものには学びがありました。
それでも、サッカーをすること自体がしんどくなっていた。
そして岡田監督へ交代し、南アフリカワールドカップ予選が始まろうとするタイミングで、代表を離れる決断をしました。
後年のインタビューでは、代表とクラブの両方を続けることが厳しく、ガンバ大阪に専念する道を選んだと説明しています。
これを知ってから、私の中で現役時代の加地亮の見え方は少し変わりました。
あれだけ走っていた選手です。
右サイドを上がって、戻って、また上がる。
代表でもクラブでも、それを繰り返す。
私たちは「加地はよく走るなあ」と見ていました。
でも、その選手が「しんどい」と感じるところまで走っていたのです。
代表引退は早かった。
ただ、それはサッカーへの情熱を失ったからではありませんでした。
代表を離れた2008年、加地はガンバ大阪でAFCチャンピオンズリーグ優勝を経験します。
日本代表を離れることで、クラブに注ぐ力を取り戻したとも考えられます。
まとめ|右サイドを走った加地亮は、今「KICK OFF! KANSAI」で笑っている
最近の私にとって加地亮さんといえば、「KICK OFF! KANSAI」です。
にこやかに話し、選手のプレーを解説し、ときには自分でボールを蹴る。
現役時代を知らない若いサッカーファンなら、「元日本代表の面白いMC」という印象を持つ人もいるかもしれません。
でも、私の頭の中には別の加地亮もいます。
遠藤保仁がボールを持つ。
その瞬間、右サイドを駆け上がっていく背番号21。
俊輔や遠藤、憲剛らがボールを動かす、その外側を何度も走る加地亮です。
当時は、それが当たり前の景色でした。
ところが、その裏では代表とクラブを掛け持ちし、心身をすり減らすほどサッカーと向き合っていました。
だからでしょうか。

今、「KICK OFF! KANSAI」で笑っている加地さんを見ると、私は少しうれしくなります。
あれだけ走った人が、今度はサッカーを伝える側として関西のスタジアムを回っています。
実際、番組MCとしてJリーグのクラブを訪れ、選手とボールを蹴りながらサッカーの魅力を届けています。
右サイドを走る姿ではなくなりました。
それでも、加地亮さんは今もサッカーのそばにいます。
そして私は「KICK OFF! KANSAI」でにこやかに笑う加地さんを見るたび、ときどき思い出します。
ああ、この人。
昔は右サイドを、ずっと走っていたんだよなあ、と。


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