中村俊輔の現在は?日本代表コーチとして再び日の丸へ

中村俊輔の現在は日本代表コーチ|セルティック時代のフリーキックと現在の姿 監督・指導者

中村俊輔と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。

左足から放たれるフリーキック。

セルティック時代のマンチェスター・ユナイテッド戦。

日本代表の背番号10。

人によって、思い浮かべる場面は違うでしょう。

私にとっての中村俊輔も、長い間そんな「テレビの向こう側にいる選手」でした。

ところが現在の俊輔は、もうボールを蹴る側ではありません。

現役引退後は指導者の道へ進み、2026年には日本代表のコーチングスタッフに加わりました。

出典:日本サッカー協会|SAMURAI BLUE コーチに中村俊輔氏が就任

かつて日の丸を背負って戦った選手が、今度は日本代表の選手たちを支える側にいる。

けれど、昔の俊輔を知れば知るほど、この道は意外ではないように思えてきます。

なぜなら中村俊輔は、少年のころから「どうすればサッカーがうまくなるのか」を考え続けてきた選手だったからです。

フリーキックの蹴り方だけではありません。

相手の動き、重心、味方の位置、自分が次にどこへ動けばいいのか。

サッカーを見て、考えて、試して、自分のものにする。

そんなことを、ずっと繰り返してきました。

指導者になった中村俊輔は、これから何を次の世代へ伝えていくのでしょうか。

その答えを探すために、まずは選手・中村俊輔を振り返ってみます。

中村俊輔は何がすごかった?フリーキックだけではない

中村俊輔の代名詞といえば、やはりフリーキックです。

独特の助走から左足を振り抜く。

壁を越えたボールが鋭く曲がり、ゴールへ吸い込まれていく。

あの軌道を覚えている人は多いでしょう。

しかし、俊輔のすごさをフリーキックだけで説明してしまうと、大切なものを見落としてしまう気がします。

彼は相手をよく見ていました。

相手がどちらへ体重をかけているのか。

どちらの足が地面についているのか。

その瞬間、自分はどちらへ動けば相手の逆を取れるのか。

さらに、その先には味方がどこにいるのか。

ボールを扱う技術と同時に、周囲の状況を読み取る力がありました。

そして、それはプロになって突然身についたものではなかったようです。

高校時代の俊輔には、すでにその原型がありました。

高校時代から中村俊輔はサッカーを「研究」していた

高校時代の中村俊輔には、興味深い逸話が残っています。

部屋には海外の名選手のプレーを収めたビデオが山積みになっていました。

しかも、ただ試合を見るためのビデオではありません。

フェイント、ドリブルなど、プレーの種類ごとに自分で編集していたといいます。

一つのフェイントを見る。

スピードを見る。

左右の足の使い方を見る。

相手に仕掛ける角度を見る。

そして俊輔は立ち上がり、そのプレーを友人に説明していたそうです。

相手とのタイミングの取り方。

重心のずらし方。

味方の選手がどこでフリーになるのか。

相手のマークをどう外すのか。

フェイントひとつを取っても、相手の上半身が流れ、重心が片足に乗る瞬間まで見ていた。

さらに、同じフェイントばかりでは相手に読まれるため、複数の種類を持っていなければ通用しないとも考えていました。

高校生です。

ここが私は面白いと思います。

「サッカーが好きだから毎日ボールを蹴っていました」という話ではありません。

見る。

分解する。

考える。

自分で試す。

そして、人に説明する。

現在の指導者・中村俊輔につながることを、すでに高校生のころからやっていたのです。

中村俊輔は、常にサッカーのことを考えている。

そんな選手だったのでしょう。

参考文献:『天才レフティ中村俊輔』(中村俊輔担当記者グループ著、株式会社ラインブックス刊)

「努力すれば技術は自分のものになる」若き俊輔が追い続けたもの

中村俊輔という選手を見ると、「天才」という言葉を使いたくなります。

あの左足を見れば、なおさらです。

ところが、本人が歩いてきた道を見ると、少し違った姿が浮かんできます。

俊輔は幼いころから、努力すれば技術は自分のものになるという考えを持っていました。

高校時代に名選手の映像を研究していたことも、その延長だったのでしょう。

さらに若き日の俊輔は、世界へ目を向けていました。

オリンピックから帰国したころには、ヨーロッパのクラブでプレーしたいという思いを語り、サイドからも崩せるような、何でもできる中盤の選手を目指していました。

そこで名前を挙げたのが「ピクシー」ことドラガン・ストイコビッチです。

自在にプレーできる選手になりたい。

もっと技術を身につけたい。

もっとサッカーがうまくなりたい。

後に世界で活躍することになる中村俊輔ですが、このころから完成された選手だったわけではありません。

本人はむしろ、足りないものを探し続けていたのではないでしょうか。

天才だからできた。

そう言ってしまえば簡単です。

けれど俊輔自身は、技術を「努力して自分のものにするもの」と考えていた。

私はそこに、中村俊輔という選手の本当のすごさがあるように思います。

セルティックで中村俊輔は何を残した?世界が知った左足

中村俊輔の名前を世界へ強く印象づけたクラブといえば、セルティックでしょう。

スコットランドで数々の試合に出場し、リーグ優勝にも貢献しました。

そして、日本のサッカーファンの記憶に強烈に残っているのが、UEFAチャンピオンズリーグでのマンチェスター・ユナイテッド戦です。

フリーキック。

俊輔の左足から放たれたボールが、ゴールへ突き刺さりました。

あの一発だけを切り取れば、「中村俊輔はフリーキックの天才だった」で終わります。

しかし、高校時代の話を知ったあとでは、少し違って見えます。

名選手の映像を何度も見る。

技術を分解する。

どうすれば自分にもできるのかを考える。

練習する。

そして、自分の技術にしていく。

その積み重ねの先で、世界最高峰の舞台に立っていた。

マンチェスター・ユナイテッドを相手に決めたフリーキックは、中村俊輔の左足が生み出した一瞬です。

けれど、その一瞬が生まれるまでには、途方もない時間があったのでしょう。

だから私は、あのゴールを単なる「伝説のフリーキック」とだけ呼ぶのは、少しもったいない気がします。

考え続け、磨き続けた中村俊輔が、世界を相手に自分の技術を証明した瞬間だったのではないでしょうか。

出典:UEFA公式|Celtic marvel made in Japan

中村俊輔と日本代表|ワールドカップで味わった喜びと苦しさ

中村俊輔を語るうえで、日本代表は避けて通れません。

若いころから、ワールドカップは大きな目標でした。

しかし、その道は順調なものばかりではありませんでした。

2002年、自国開催となった日韓ワールドカップ。

中村俊輔は最終メンバーに選ばれませんでした。

その後、日本代表の中心選手となり、背番号10を背負います。

2006年ドイツ大会ではワールドカップのピッチに立ち、2010年南アフリカ大会でも日本代表メンバーに入りました。

結果だけを並べれば、それが中村俊輔の代表歴です。

けれど、若いころの言葉を知ると、その一つひとつの重みが違って見えます。

オリンピックを経験したころから、その先のワールドカップを見ていた。

ヨーロッパでプレーする自分を思い描いていた。

もっと自在にプレーできる選手になりたいと考えていた。

夢に届いたこともあれば、届かなかったこともある。

日本代表での中村俊輔には、その両方がありました。

だからこそ、現役を終えた俊輔が再び日本代表に戻ってきたことに、不思議な巡り合わせを感じます。

今度は背番号10ではありません。

選手たちを支えるコーチとしての日の丸です。

出典:日本サッカー協会|中村俊輔 ナショナルコーチングスタッフ紹介

横浜FCで中村俊輔が「遠くの人」ではなくなった

私にとって、中村俊輔は長い間「遠くの人」でした。

セルティックで活躍していた。

日本代表の10番だった。

世界を相手にフリーキックを決めた。

もちろん試合は見ていました。

すごい選手だとも思っていました。

それでも、自分とは離れたところにいるスター選手でした。

それが変わったのが、横浜FCです。

2019年、中村俊輔は横浜FCへ加入しました。

私が応援するクラブのユニフォームを着て、目の前でプレーするようになったのです。

これは大きかった。

テレビの向こうにいた「中村俊輔」が、「俊さん」になりました。

横浜FCでは、全盛期のように毎試合ピッチを支配する選手ではありませんでした。

年齢を重ね、出場時間も限られていきました。

それでも、ボールを持ったときには何かを期待してしまう。

フリーキックになれば、今でも決めてしまうのではないかと思ってしまう。

そして、実際に決めるのが「俊さん」でした。

そして2022年、中村俊輔は横浜FCで現役生活を終えました。

さらに、その横浜FCで指導者としてのキャリアをスタートさせます。

出典:横浜FC公式|中村俊輔引退試合 HISTORY COLUMN #01

出典:横浜FC公式|中村俊輔氏 トップチームコーチ就任のお知らせ

振り返ってみると、私が中村俊輔を「一番好きな選手」と思うようになった理由には、この時間がかなり大きかったのだと思います。

もし横浜FCに来ていなかったら。

私にとって中村俊輔は今でも、セルティックで伝説のフリーキックを決めた「遠くのすごい選手」だったかもしれません。

横浜FCが、私と中村俊輔の記憶をつないでくれました。

中村俊輔の技術とサッカー観は次世代へ受け継がれるのか

現役時代の中村俊輔を知る人なら、指導者になった彼に期待するものがあります。

あのフリーキックを教えてほしい。

あの左足の技術を若い選手へ伝えてほしい。

もちろん、それも見てみたい。

けれど、高校時代の俊輔を知ると、もっと伝えてほしいものがあります。

プレーを見ること。

なぜそのプレーが成功したのかを考えること。

相手の重心を見ること。

自分に足りないものを探すこと。

何度も試すこと。

そして技術を自分のものにすること。

フリーキックの蹴り方なら、映像として残せます。

フォームも分析できます。

しかし、中村俊輔が長い時間をかけて身につけてきた「サッカーの考え方」は、人から人へ伝えていくしかありません。

高校生の俊輔は、海外の名選手の映像を編集し、友人を相手に「なぜこのプレーが成功するのか」を説明していました。

それから何十年も経った今、彼は本当にサッカーを教える側に立っています。

偶然でしょうか。

私は、そうではないような気がします。

選手時代からずっと続けてきたことの延長線上に、指導者・中村俊輔がいるのでしょう。

出典:横浜FC公式|「ただ見るんじゃなくて観る、を大事に。」中村俊輔インタビュー

一番好きな選手を聞かれたら、中村俊輔と答える

一番好きなサッカー選手は誰ですか。

そう聞かれたら、私は中村俊輔と答えます。

セルティックで活躍したから。

日本代表の10番だったから。

フリーキックが美しかったから。

もちろん、それもあります。

でも、それだけではありません。

横浜FCへ来てくれたことで、遠くにいたスター選手が、自分のサッカーの記憶の中へ入ってきました。

そして改めて俊輔の歩みを振り返ってみると、子どものころから変わっていないものが見えてきます。

もっと、うまくなりたい。

どうすれば、うまくなれるのか。

そのために見る。

考える。

試す。

また考える。

中村俊輔は、ずっとサッカーを考え続けてきた人なのだと思います。

選手としての中村俊輔は、もうピッチにはいません。

けれど指導者として、そのサッカー人生は続いています。

高校生だった俊輔がビデオを見ながら考えていたこと。

ヨーロッパへ行きたいと夢見ながら考えていたこと。

セルティックで世界と戦って身につけたこと。

日本代表で味わったこと。

横浜FCで最後までプレーして感じたこと。

それらを、これから次の世代へ伝えていくのでしょうか。

いつか日本代表の試合を見ていて、

「今のプレー、ちょっと俊輔っぽかったな」

そんなふうに感じる瞬間が来るかもしれません。

そのとき、中村俊輔という選手の記憶は、別の選手の中でも生き続けているのだと思います。

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